とりあえず、今時点での考えを、このブログに書くことで、いったん整理しようかな、と思っています。
で、今日はICFとポジティブプランというテーマで。
基本的には「ポジティブプラン」というのが、
- 平成15年3月の「ケアマネジメントの原則に則った実践の確保方策に関する研究」報告書(財団法人長寿社会開発センター)で、広く打ち出されて、その後のサービス計画書の書き方の基礎になった
- 端的にいえば、ニーズの捉え方として、「~できない」ととらえるのではなく、「~したい」、「~できるようになりたい」という書き方が良いとされた
- 平成18年4月の改定で、サービス計画書第2表の「援助目標」という見出しが「目標」に変更された
ネット上でも、各種解説でも、ICFの特徴として、
- 「健康状態」
- 「心身機能・身体構造」
- 「活動」
- 「参加」
- 「環境因子」
- 「個人因子」
「活動」と「参加」には、それぞれ「実行状況」と「能力」という評価観点がある
「環境因子」と「個人因子」は、それぞれの中に「阻害因子」と「促進因子」がある
ICFは「医学モデル」と「社会モデル」の統合を目指している
あたりが、まずあげられています。
このあたりを素直に解釈すれば、ICFが「~できない」という捉え方をしていないわけではないということになります。なにより、活動と参加に能力という評価観点がはっきりあるわけですから、できないことを、きちんと捉える必要は否定していないことになります。
では、なぜ、あるいは何を目指して報告書が「~できない」と書くな、「~できるようになりたい」と書け!ということになったのか、無理やりにでも想像してみたいと思います。
(すみません乱暴な言い方で。報告書を踏まえた『居宅サービス計画書作成の手引き 三訂版』では、留意点(Q&A)として、
「○○したいと書かなければ、居宅サービス計画書のニーズとして認めませんとも、「○○できない」と書いてはならないとも言っていません (p.30)
としています。ですが、報告書の該当部分を読めば、Q&Aは少し苦しいのでは・・・)
まず、考え(というか、想像というか、こじつけ)の手がかりとして、
- ICFが「活動」と「参加」を(概念として、無理やりにでも)併記することにより、分けていること
- 介護やリハビリで「動作分割」という概念がある
- 「○○できない」から入ると「○○を介助する」という短絡的になると報告書は恐れている
端的に(何らかの理由あるいは事情により)「調理ができない」を課題した場合、その理由や事情が解消あるいは克服されない限り、「調理はできない」ままです。これは、ICFの前身であるICIDH(国際障害分類)に対するものと同様の批判が可能です。
すなわち、「社会的不利」の原因は「能力障害」であり、「能力障害」の原因は「機能・形態障害」であり、「機能・形態障害」の原因は「疾患・変調」であるとするICIDHでは、結局のところ、個人の疾患や変調にその原因のすべてを求めて、極論すれば個人に「ケガや病気を治せ!、治れ!」と要求するだけになってしまいかねない、というものです。
いまどき、こんな考え方をする人は、少なくとも専門職の中にはいないと思うのですが、報告書では、この点をいたく心配しているようです。
ICFで活動と参加を分け、また「動作分割」という介護のまぁ手法というか、概念を合わせて考えれば、たとえば「調理ができない」という状態の記述を、より大きい記述ベースで考えるか、より細かい記述ベースで考えるかという選択が生まれます。
より細かい記述ベースで考える方が理解しやすいので、先に述べますと、
「調理」という行為はたとえば、食材を洗う、食材の皮を剥く、食材を切る、フライパンで炒める・・・というように動作分割が可能です。(これをしていくと膨大な分量になりますが。)
たとえば、左の手首から先が何らかの事情で欠損した場合(これは現在の医学レベルでは不可逆的なもので、治る、治すというものではないレベルでしょう)、「調理」という行為が全てできなくなるかというと、そうではないようです。
具体的は、ジャガイモや里芋などの皮むきは、非常に困難になるようですが、たとえばフライパンで炒めるという動作は(クォリティを別にすれば)そう困難ではないそうです。
つまり上のような例で、単純に「調理できない」と書くな、ということなのでしょう。
この場合は、ニーズとして「(全体として)調理する」として、分割された動作のうち、何が補足されれば、それが可能になるのかを、たとえば援助として位置付けるように、計画してほしいということなのだろうと、推測しています。
ついでに、援助者というのも「環境因子」として位置付けているICFでは、社会がこの例のような場合に、どのような環境を提供できるのか、という点も問うていると思われます。
善悪は別として、今どきの都市部のスーパーでは、既に皮をむいてある野菜が売られています。乱暴な言い方ですが、このケースの場合、援助者とスーパーの商売上の工夫は、置換可能になります。そういうスーパーが近隣にない場合は、援助者が必要になり、近隣にある場合は援助者が不要というだけです。さらに、援助者が家族なのか、訪問介護員なのか、ボランティアなのかという点も(このことに限れば)、置換可能です。
(上記のような例は、悪く言えば給付抑制・制限、良く言えば給付の適正化、社会資源の効率的運用あたりの議論と切り離せなくなってしまうわけですが、「自立支援」の定義が、あいまい、かつ恣意的に利用されることも含めて、考えていくべきことと思います。)
報告書は、援助者の目標でなく、利用者の目標として考えるためのステップとして、「○○できない」ではなく「○○する」と書けというのは、実は、「○○」のレベルを(いったん)ずらして、考えてみては?という提案なのだろうと、(現時点では)好意的に解釈しています。
次回は、○○のレベルをより大きい記述ベースにする点について考えてみます。
