2008年12月22日月曜日

雪には変わらないかな・・・

 東京は今、雨です。雪が降ったら、書こうと思っていたネタなのですが、年内には雪は降りそうにないので、下の定家の歌が暮れのうちでないと生きてこないので、今日書いてしまいます。

淡雪(あわゆき)のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも 大伴旅人(万葉集)

降るものは、雪。あられ。みぞれはにくけれど、白き雪のまじりて降る、をかし。 清少納言(枕草子)

ひととせをながめつくせる朝戸出に薄雪こほる寂しさの果て 藤原定家(六百番歌合)

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む。 三好達治

 などなど、雪をキーワードにした「抒情詩」は日本にはたくさんあります。
 はじめの旅人の歌は8世紀、清少納言は11世紀、定家は14世紀、三好達治は20世紀ということになります。
 
 旅人の「ほどろほどろに降りしけば」は、はらはらと降っているから、と普通訳されますが、そんなもんじゃないほど強烈な表現ですよね。「ほどろほどろ」ですよ。

 清少納言はいわゆる「ものづくし」シリーズなのですが、表現として、鮮烈。形容詞を使って、ここまで切り詰めた表現は、日本語では、例を見ないのでは?
 ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」の冒頭に通じる表現かと。
The night was young, and he was so. The night was sweet ,but he was sour. (うろ覚え・・・)
夜は若く、彼も若かった。夜の空気は甘かったが、彼の心は苦かった
 (個人的には、「夜はまだ早く、彼は若かった」と訳すべきと思ってます)

 定家の下句「薄雪こほる寂しさの果て」は間違っても、「薄雪こほる寂しさ」(この場合「こほる」は連体形で、薄雪が凍るような寂しさの意味になってしまう)と続けて読んではいけませんし、「薄雪こほり、寂しさのはて」(「こほり」は連用形で、薄雪が凍って、寂しさがきわまったの意味になります)でもなく、「薄雪こほる。寂しさのはて。」(「こほる」は終止形。「寂しさの果てに薄雪が凍る。」の倒置法表現です)で、塚本邦雄さんも、絶賛の歌です。
 ちなみに、芭蕉の「塚も動け我泣声は秋の風」も、「我が泣く。声は秋の風。」と泣くを終止形で読むべきです。そうすると「塚ー動け」対「我ー泣く」で、世界がひとつ出来上がるからです。下の句は「我が泣き声は」と読んでは絶対にいけません。

 で、三好達治の「雪」。眠らせるのは誰なのかというのは、この場合、かなりどうでもいい疑問で、旅人以下、日本が獲得してきた「新しい表現」を存分に味うべきかと。
 
 私の学生時代の立場としては、何か作者の頭の中に思想や内容があって、それを取り出したものが表現であるというのではなく、表現と同時に内容や思想がたち現れる、あるいは表現が先で、思想や内容は後付けなので、作者は関係ない、という立場(思いっきり大雑把に言えば、表現論といいます。ロラン・バルトという人は「作者の死」と表現しました。たぶん彼は、この言葉を思いついて、かっこいいと思ったので、それに見合う思想をつむいでいったのでしょう。表現論的にはそのはずです。)だったので、こういう作品は大好きです。

 早い話、「イカしたセリフなら、それでよし」という立場ですね。いまでも、かなり引きずってますが・・・

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