2008年10月6日月曜日

転倒予防という課題や目標

 ポジティブプランについて考えるというテーマで、今回は転倒予防ということについて、まずは素朴な考察をしてみたいと思います。

 サービス計画書(施設でも居宅でも)の第1表の総合的な援助の方針でも、第2表の課題や長期目標でも、「転倒を予防し」とか「転倒に気をつけ」とか、とにかく「転倒予防」という意味のことが記載されることは、多分少なくないと思います。
 もちろん高齢者において、転倒が心身の状態の悪化や廃用症候群の契機、入口となることは、どの教科書にも書いてありますし、それが間違っているとは思いません。

 ただし、「転倒を予防する」のは「誰か」、つまり主語がよくわからないというのが、まずは私の素朴な感想です。
 もちろん、日本語の特性ゆえ、主語をとりたてて明確に記述しなくとも意味は通じるというのを否定するつもりはありませんし、状況としての転倒が予防されているということ、つまりすべての関係者および状況全体が転倒予防に関与する(日本語は無生物主語への許容が広いですから)という記述レベルにあるという理解をしています。
 つまり、とりたてて「誰が予防する」=「誰がその責を担う」ということは記述しなくともよい、というか、わざわざ書くのは「野暮」あるいは「失礼」な「感じ」がするんだろうと思います。

 さて、それでもあえて、予防するのは主として誰?といえば、まずは利用者ご本人なのでしょう。

 ですので、「転倒を予防し、・・・」という、長期目標は、身も蓋もなく表現すれば、
転ぶな!転べば・・・

 という風に言っていると等しいとも思えてきます。

(もちろん含意があると思われる、そうとも読めるというレベルですよ、分かりやすく極論を例にしているだけですから)

 さて、極論ついでに、「転ぶな!」という言葉じりを捉えると、「いやいや、高齢者にも転ぶ権利があるはずだ!」というもう一方の極論が出てきそうです。

 てっとり早く結論を言ってしまえば、高齢者に限らず、「転ぶ権利」なぞはありません。
 「転ぶ」こと(この場合「転倒」に限っています。転向の意味は除外してください)は、自由意思をもって行うことではありませんので、「権利」という言葉とは親和しません。
 「拘束される権利」、「虐待される権利」も同様に成り立ちません。
 (「前人未到の地に住む人食いワニ」も多分同様です)

 この場合、「転ぶ危険を顧みずに歩く権利」とか「転ぶことをいとわずに立ち上がる権利」というのは、(表現上)成立しますし、確かにその「権利」を誰もが保持している(行使できるできないは別として)ことも確かです。
 (「前人未到の地に住む人食いワニ」は「人食いワニと同じ種類で、前人未到の地に住むもの」の意味なのでしょう。)

 ですから、「転ぶ危険を顧みずに歩く権利」を省略して「転ぶ権利」と言っているのかもしれません。
 でも、そうすると「転ぶな!」というのは「転倒の禁止」であって「歩行の禁止」を直接的には意味しないので、反論にはならないことになります。

 それでも、「転ぶな!」と言っているように読めてしまう、つまり「禁止」、「命令」に置換可能な「目標」に関して、どうしても違和感があります。

 そこまで、深読みをする利用者・家族は多分いない(仮に私が利用者であったとしても、同意しないというわけではないです。)とは思いますが、この違和感はたぶん「転倒予防」は「手段」であって「目的」ではないはずなのに、課題や目標に「転倒予防」が来ることの違和感なのではないか、と考えています。

 ケアプランに関しての考察は、もう1、2回「転倒予防」というプランに関して考えてみたいと思います。 

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